究めつくしたい道

中国に、弓矢無双を自負する名人が、居た。
自ら選んだ道、精進の果て、
十間先に一本垂らした髪をも射抜いてみせる。
人々は彼の腕をたたえるが、「中国一」、となると、口を濁した。
深山に棲む仙人こそがその名にふさわしいだろう、という人が居た。
早速、名人は山奥深く分け入った。
白髪の仙人の眼前、名人は一矢で三羽の鳥を射落としてみせる。
仙人は微笑み、矢を射るかたちを示すのみ。一瞬ののち、静かに、鳥が墜落した。
名人は仙人の弟子となった。

歳月を重ね、名人も老いた。
仙人よりゆるされて故郷に帰っていった名人の家の上は、鳥も避けて通ったという。
人々は惜しみない賛辞を名人にあたえた、「まさに中国一」と。
ある日。地元の貴族に招かれた老名人は、玄関に飾られた物を見て、これは何かと尋ねる。
貴族は「ご冗談を」と笑うが、名人は虚心、重ねて問うた。
貴族は名人の顔を黙って見つめた。
「これは何か?」
「先生・・・」貴族はことばを失い、ややあってつぶやいた。「何と−。弓矢をお忘れか」

弓矢の道を究めつくした名人は、いつしかその弓矢のかたちを忘れてしまった。
では名人にとって弓矢とは何だったのか。
忘れてしまうものならば、それは弓矢でなくてもよかったのか?
いや、夢中になれる、好きな道があったからこそ打ち込み、中国一になり、
究めつくして無我の境地にまで到達できたのではないか。
それに値する道を我々も選びたいものだと思う。